説明
収録曲
1. | メンデルスゾーン:「紡ぎ歌」ハ長調 op.67-4(無言歌集第6番より) | 1:46 |
2. | シューベルト:即興曲 変イ長調 op.142-2 D-935 | 4:56 |
3. | シューベルト:即興曲 変ロ長調 op.142-3 D-935 | 9:14 |
ベートーヴェン:ソナタ第14番 嬰ハ短調「月光」op.27-2 | ||
4. | アダージョ~アレグレット | 6:33 |
5. | プレスト | 5:58 |
6. | ショパン:ノクターン 第12番 ト長調 op.37-2 | 5:43 |
7. | ショパン:ノクターン 第14番 嬰ヘ短調 op.48-2 | 7:29 |
イグナツィ・ヤン・パデレフスキ、ピアノ Ignacy Yan Paderewski, piano |
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モーツァルト:ソナタ第18(17)番 ニ長調 K.576 | ||
8. | アレグロ | 4:48 |
9. | アダージョ | 4:21 |
10. | アレグレット | 3:57 |
11. | ランナー(ランドフスカ編曲):ウィンナ風ワルツ | 3:55 |
ベートーヴェン:ソナタ第12番 変イ長調 op.26 | ||
12. | アンダンテ | 7:25 |
13. | スケルツォ | 2:17 |
14. | ロンド~アレグロ「葬送行進曲」 | 7:43 |
Total Time 76:33 | ||
ワンダ・ランドフスカ、ピアノ Wanda Landowska, piano |
解説
Ignacy Jan Paderewski
イグナツィ・ヤン・パデレフスキは1860年11月18日、ポーランド貴族の子息としてクルィウフカ(現ウクライナ)に生まれた。
幼い時からピアノを習い、12歳でワルシャワ音楽院(The Warsaw Concervatory)に入学。1878年卒業後母校でピアノを教えるが、1881年にベルリンへ留学して作曲を学ぶ。その後1884年にウィーンにおもむき有名なレシェティツキ(Leschetizky)に師事。
1887年にウィーンでデビュー、「パデレフスキはピアノのために生まれてきたような天才だ!」と作曲家マスネを感嘆せしめた。それからは、大変な人気ピアニストとして、パリ、ロンドンでも大成功、各地で聴衆を熱狂させ、その人気は1891年にはアメリカにまで及び「オペラのカルーソー、ピアノのパデレフスキ」とまで称された。しかし「私が1日でも練習をしなかったら、聴く人はすぐ分ってしまうだろう」と述べるほど技術を維持、磨くためには忍耐と練習が欠かせないことを実践した。
世紀が変わると作曲に専念するようになり多くのピアノ曲や、『マンル』などのオペラを作曲。一方で、パデレフスキは、社会活動、文化活動を行い、ショパン生誕100年を記念してモニュメントを建立するなどした。更にドイツ、オーストリア・ハンガリーの支配下にあったポーランドの独立運動を率先して積極的に行い、武力蜂起の末、1919年に新生ポーランドが誕生すると、パデレフスキは首相と外務大臣を兼務、退任後も国際連盟ポーランド大使を務めたほどの愛国者であった。
1922年政界から引退、カーネギー・ホールでの復帰リサイタルは大歓迎で迎えられ、その後多くの演奏会やレコーディングを行った。1940年に政界に復帰後も、財政確保のため演奏活動は続けられたが、その最中、1941年6月29日ニューヨークで客死した。
Wanda Landowska
ワンダ・ランドフスカは1877年7月5日、ポーランドの首都ワルシャワに生まれ、4歳のときからピアノを始めた。
ワルシャワ音楽院に学び、13歳でバッハを弾いてデビューした。近代ポーランドのピアノ演奏の始祖ともいうべきアレキサンドロ・ミハロフスキの門下でもあった。19歳からベルリンで対位法を学び、作曲の師はモシュコフスキーであった。
1900年巴里で結婚、夫君アンリ・ルーはヘブライ音楽の研究家で、その影響でチェンバロに関心を抱き、この楽器の研究と復活につとめ、1904年24歳にバッハを弾いてチェンバリストとしてデビュー、その道一筋の専門家として活躍。1909年名著「古い音楽」を表す。更に1912年、ピアノで有名なプレイエル社と共同で近代チェンバロを開発、それを披露して大きな反響を呼んだ。チェンバロ科が新設されたベルリン音楽学校で教授に任命されるが、第一次大戦中はドイツ軍に抑留、大戦末期には夫君を自動車事故で失う。
戦後渡米、多くの演奏会、録音を行う。一方エコール・ノルマルの教壇に立つなど巴里を中心に活躍、第二次大戦中、ナチのパリ侵攻を逃れて南米、スイスを経てアメリカに永住する。
チェンバロを現代に復活させた功績は多大で、ファリャとプーランクは彼女にチェンバロ曲を作曲し、献呈している。1959年8月16日レークヴィルで亡くなる。80歳。
旧居は現在”ランドフスカ・センター”となっている。ランドフスカは、前記のように、幼くしてピアノになじみ、ピアニストとしての実力を充分に認められてから、チェンバロの大家となった人なので、チェンバリストとしての多くの録音があるが、ピアノ演奏のレコードも残している。
そうしたことから、丁度自動ピアノの最需要期と重なった、第一大戦後にアメリカへ渡ったランドフスカが、ピアノ・ロールへの演奏を依頼されたのは当然のことであったろう。あまり数の多くない彼女のピアノ演奏に、こうした音源があることは貴重なことである。
(西寺吟)