説明
収録曲
くもにまごううえののはつはな | ||
1. | 天衣紛上野初花(河内山) 松江邸玄関先の場 | 13:01 |
いちのたにふたばぐんき | ||
2. | 一谷嫩軍記(陣門・組打) 須磨浦組打の場 | 21:18 |
ぞうほももやまものがたり | ||
3. | 増補桃山譚(地震加藤) 伏見城奥庭の場 | 20:24 |
total time | 54:43 |
解説
初代中村吉右衛門(一八八六~一九五四)は明治十九年三月二十四日浅草寺の裏、浅草象潟町に、三代目中村歌六の次男(本名波野辰次郎)として生まれた。
弟は三代目中村時蔵、十七代目中村勘三郎、娘婿は八代目松本幸四郎である。
初舞台は明治三十(一八九七)年。明治末から大正期に、六代目尾上菊五郎とともに「菊吉時代」築き、いわゆる「市村座時代」を招来し、小宮豊隆が『新小説』に「中村吉右衛門論」(現、岩波現代文庫)を発表(明治四十四年)するなど、知識人にも支援者が多かった。以後も、初代吉右衛門は、父歌六譲りの上方風の芸風に、九代目團十郎の近代的な演技を加え、大正から昭和にかけて、歌舞伎という演劇を新鮮によみがえらせ、多くの観客を魅了した。
戦後は歌舞伎界の重鎮として活躍し、とりわけ六代目菊五郎没後は歌舞伎界の頂点に君臨して、文化勲章をはじめとする栄誉に輝いた。
最も得意としたのは時代物を中心とする演目で、いずれの役にも播磨屋独特の名調子をうたわれ、その型や芸が伝えられている。
また、六代目歌右衛門や十七代目勘三郎、八代目幸四郎らを擁した中村吉右衛門劇団は、戦後歌舞伎の分布図を二分する存在となって、現在の歌舞伎界にも大きな影響を与えている。屋号は「播磨屋」、大向こうからの「大播磨!」の掛け声で知られた。
養子にあたる当代中村吉右衛門が、初代の俳名「秀山」に因んだ「秀山祭」をもよおして、その芸の顕彰につとめている。
昭和二十二年日本芸術会員、昭和二十六年文化勲章。昭和二十九(一九五四)年九月五日没。
(河竹登志夫)